階段下のがらくた部屋

ハリー・ポッターの感想・考察から日々の雑事まで。だったのが色々あって将棋とか。

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羽生三冠&羽生世代  

無知を免罪符に、とんでもないテーマについて厚顔無恥にも語ってみます。
表層しか知らない人間だからこそ言えることもある!(と、自分を鼓舞してみる)
私なんぞが全然何もわかっていないのは、私自身が百も承知であります…


■羽生三冠の強さ?

以前にも書きましたとおり、将棋に興味を持ち始めた私が
まず将棋について調べる足がかりとしたのが羽生三冠です。
というかぶっちゃけ羽生さんのことしか知らなかったのです。

で、調べていくうちにますます興味が募り、羽生さんの著書(新書)をあれこれ読んでみたのですが…
なんてこと!読めば読むほどわからない!!!(笑)

小学4年生の頃に出会ってから30年以上羽生さんとのライバル関係にあり、
公式戦だけでも対羽生戦が100局をゆうに超える森内名人が
「どういう性格なのかわからない」
「理解しきれない、強さ、怖さを感じる」
と発言されるのを見て、
「えええー!30年も付き合いのある人にこんなふうに言われる羽生さんっていったい???」
と思ったものです。

ええ、ええ。本を読んで映像を見たくらいじゃあ、全然わかりませんね。
大抵の場合2冊か多くても3冊、その人が書いた本を読めば
だいたいその人の考える方向性とか興味の対象とか価値観とか、そういうものが大まかにでも把握できると思うのですが
羽生さんに関してはさっぱりわかりません。
しかも小説とかじゃなくて、ご自分の考え方や価値観を明朗な言葉で記した本だというのに!
趣旨とか伝えたいことは明確なのに、書いてる人がどういう人物なのか全く見えてこない!!!
いや、見えてるんだけど、目の前にあるんだけど、つかめない。そんな感じ。

わからないながらもわかったことといえば、
・可能性が狭まるのはとにかくイヤらしい
・一見矛盾する、対極にあるような性質をあらゆる面で同時に兼ね備えていて、しかも絶妙なバランスでそれを発揮している
(客観的/感情的、革新的/保守的、攻撃的/守備的、論理的/感覚的、局所的/大局的、楽天的/現実的…などなど)

以上の2点が羽生さんのもつかなり大きな特徴なのではないでしょうか。

ということをよく行くバーのマスターに話したところ

「それを聞いて思い出したんですが、
僕の知ってる人にとあるバーの”伝説のマスター”と呼ばれる方がいるんです。
その方は実はお酒が全く飲めないんですが、
だからこそお店やお酒に自分の好みが反映されなくて偏らないから、
わけ隔てない対応ができるんです」

と話してくれて、なるほどー!!!と思ったのでした。


…いえ、それだけです。
全然羽生さんの強さに迫れてなんかません…(あたりまえ)




■羽生世代の強さ?

以前読んだ養老孟司氏の著書で
”現代の日本の都市はきわめて人工的な、つまり脳化されたと言いうる環境であり、そこ生活するということはすなわち人間の脳の中という限定的な世界で生きていることになる”
というような旨の記述がありました。
(※かなりうろ覚えのうえ、どの本だったかも思いだせない…)

混沌極まる、この世の無限に近い有限さと比べれば、たかだか人間の頭の中で作られるものなんて、ほんの些細なものです。
人工的な環境とはつまり人間の脳にふるいをかけられた世界であり、多様性に乏しい世界と言えます。

たとえば絵画の未熟達者が修練のためデッサンをするとき、写真を見て描くことが良くないとされるのは、
実際に目の前のものを見る場合に比べて、写真というものは既に情報がある程度そぎ落とされたものだから。
それを元にするということは、さらにそこから汲み取れる情報が限られてしまうので
未熟達者の修練としては適切ではないのです。

養老氏の趣旨は、そういった多様性の欠落した環境で生きることで人間の可能性や能力を狭めることへの懸念…だったように記憶していますが、
将棋における研究将棋への偏重(極端な比重の高まり?)、というのにもなにやら似たような雰囲気を感じるような…気がします。

羽生三冠を筆頭とした羽生世代が未だ衰えを見せる気配がなく
若手の台頭が望まれて久しい…というのはよく見る論調でありますが
なぜそうなのかという点では「羽生世代が強すぎるから」という、ある種投げやりな結論で締めくくられてしまっていることが多いような気がします。

羽生世代の話題でよく登場する「島研」主催者である島九段の談によると
”島研では序盤の研究よりも、むしろひたすら実戦で終盤を鍛えていた。羽生世代の棋士たちは将棋の基礎体力がある”
とのこと。

この”将棋の基礎体力”というのは定跡をひたすら論理的に突き詰めて結論を出すことで得られるものではなく、
現代からすると一見無駄の多いように見えるのかもしれない、
定跡などをむしろあまり知らない状態で、ただひたすら実戦を繰り返し、自分の頭で手や局面の可能性をひねり出して考える…ということなのかなあ、とぼんやり思うのです。
発展途上過程、将棋を吸収する成長期において取り込む栄養素が違うのかな、と。

学生時代の友人が「自分はカロリーメイトとかサプリメントとか、ああいう栄養食品は食べたくない。必要な栄養素は摂れるかもしれないけど、それ以上のものが何もないから」
と言うのを聞いて、なるほど、と思ったことがあります。
行動の面においても仕事と趣味や興味を持ったものなどがすべて一貫して一つの目的のために行っている、という人はほとんどいないと思われますが
でもまったく無関係だと思ってやっていたことが、ずいぶん時間がたってから思いもかけない場面で役に立つことがあります。
それは具体的にそのまま役立つこともあれば、物の見方の一面としてあらわれることもあれば、そこで得た人とのつながりであったり、まさに想定外の形です。
価値観や考えるときの要素の”幅”と言えるかもしれません。

今確実に目の前で役に立つこと(=あくまで人間の脳の中で形成された概念の範疇)だけをやっていたのでは、
きっとこういった副産物が生じる余地が少ないのではないでしょうか。
些細な、いつどこでどのように役立つかわからない、一見無駄のあるやり方であっても、
長い目で見たときにその”幅”の蓄積は大きいのではないかなあ…という気がします。

もちろん研究を否定するわけではなくて(そんなこと言う資格も権利もないし…)、
現代将棋においてもはや研究は必要不可欠かつ不可逆の成り行きです。
研究もその他のさまざまな要素も必要なうえで、ということで。

ただ、羽生三冠の
”定跡の整備によって現代将棋は革新的な変化を遂げたが、皆が大量の同じ情報を即時に得られるようになったことで、高速道路の先では若手の大渋滞が起こっている”という
いわゆる”高速道路論”でも表現されているとおり、
定跡の研究という点では他者との差をつけるのが難しいのだと思われます。

熾烈な弱肉強食の勝負の世界で”高速道路の先の渋滞”から抜けるには
やはり”将棋の基礎体力”がモノを言うのかなあ…などというシロウトの妄言です…はい…(弱気)
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